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★ 原告意見陳述 
  原告共同代表  萩原ゆきみ
         同  福島敦子
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萩原 ゆきみ

共同代表の萩原です。これから最終意見陳述をします。

「なぜ、専門家に相談に行かないのか?病院に行かないのか?」と言われるかもしれませんが、緊急性のある具合の悪さがある分けではないのでは?と思われますし、何かの病名や診断名が付く事で、もうこれ以上、自分の子ども達の未来を悲観したくない。
私達の心と身体は傷付き過ぎて、色々な意味で一杯一杯です。そればかり考えていたら、何も出来なくなります。一見、平静を装いながら日々を過ごさなければ、生きていく気力さえ、奪われてしまうのです。病院に行ったり、健康診断に定期的に通う為の、気力も体力も、時間も無い程、私達の追い詰められた事情を分かって頂きたいです。

これは我が家だけでなく、他の多くの原告らにも共通して言える事です。原告らは、話をする時にはかなり話して下さいますが、「陳述書に書いてね」と言うと、躊躇します。

私は共同代表として原告らと会話を重ねてきましたが、私も含めて陳述書でも本人尋問でも言い尽くせなかった事が多々あります。日々の忙しさや漠然とした具合の悪さから、落ち着いて取り組め無かったり、集中力が無かったという事もありますが、被害が余りにも広範囲にわたっているので書き切れないのです。
苦しみが被害が個人的に色んな意味で悲惨すぎて言えない。書けないのです。私も余りにも個人的で悲惨過ぎて言えない事があるので、その気持ちは、痛いほどに良く分かります。

避難元の汚染が一番低い原告であっても低レベル放射性廃棄物(100ベクレル以上)の範疇に入る程の汚染された土地なのです。本来なら,黄色いドラム管に入れて半減期の10倍も保管管理されなくてはならない土地で生活、子育てをするなんて、あってはならない事なので避難の正当性を認めて下さい。
ましてや、被告東電の柏崎刈羽原発では、原告らの避難元より低く汚染されたゴミでも黄色いドラム缶に入れて厳重に管理しているのです!
何故私達の子供達はそれよりもずっと高く汚染され土の上で遊ぶ事を許可されてしまうのでしょうか?!余りにも理不尽です!!

運動会で、放射性物質の深刻な汚染の無い野外で演技をする娘らを見ると、今だに涙が溢れ出ます。
一般的に被災地と呼ばれている地域から離れている安心感と感謝、見果てぬ望郷の念、故郷に残してきた父、兄、姉、親戚、友人、知人らへの溢れる想いで涙が止まらなくなります。
復興ソングの花は咲く、ふるさと、ビリーブ、世界に一つだけの花、等の歌を聴いたり歌ったりすると、事故から6年半以上たった今でも涙が溢れる出てくる避難者が多いです。私達の心身の傷がどれ程根深いか想像して頂けるでしょう。

食品に含まれる放射性物質が下がってきているとは言っても、被曝には閾値が無いのですから、例え数ベクレルでも追加被曝はしたくないから被災地と呼ばれる産地の食べ物は食べたく無いのです。

地元では、私の父も含めて放射能対策を施していない、家庭菜園、山菜を採って食べている住民らもいます。
流通させてはいけないレベルの汚染食品の横流し、事故前からもされていた産地偽装、空間線量、行政が口にしない土壌汚染等により、完璧に国民を内部被曝や外部被曝から守る事は決して出来ないのです。

「最後に、引き受けて下さった原告側と被告側の弁護団がいて提訴出来ました。お陰様で世の中の沢山の人々に被害の実相を知って頂けました。この訴訟に関わって下さった全ての皆様へ感謝致します。」

「補償については『出来る事は出来る。出来ない事は出来ない。しかし、事実は原告側の言う通りなので謝罪します。』」

この様な真摯な姿こそが全世界を核の脅威から守る事になるのだと思います。
福島第一原発事故の被害の実相が明らかにされ世界中の生きとし生ける者達の命と健康が様々な形で大切にされる事を心から望みます。

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福島敦子

 目に見えない、においもしない放射性物質による汚染の現状とそれを原発事故によりばらまかれた恐怖、それによる健康被害や不安そして実害の数々。本人尋問で法廷に立った57世帯の私たち原告の心からの渾身の思いのすべてと、専門家の世界標準の見識である証言とそして、弁護団の先生方の弁論によって、どれだけ裁判官の「目に見えるもの」になったでしょう。

 2011年3月11日の地震が起きた後から、福島第一原子力発電所の中では原子炉の制御不能に陥り、炉心内の放射性物質が爆発やベントとともに発電所構内から人々が生活する敷地外へと大量にそして世界的に拡散されてしまいました。
 6年以上たった今でも国は「原子力緊急事態宣言」を出したまま、事態は収束していません。緊急事態なので、それまであったルールの公衆被ばく限度量を引き上げ、福島県民はその中での生活を強いられました。しかし、6年が経ち「復興」しなければならないという理由で、国は事故後の無策を放置したまま、避難者の無償提供住宅を打ち切り、2011年度末で年間積算放射線量50ミリシーベルト未満の避難区域を一律で解除し人々を不要な被ばくにさらし、近隣住民への補償を絶つことを次々と実行に移しています。

 この夏、私は福島県南相馬市へ戻って来ました。福島市から南相馬市までの山道。今まで見られた黒いフレコンバックが積まれた光景は、飯舘村以外見ませんでした。浪江町まで父に車を借り行ってみました。避難指示解除に向けまばらな住宅では除染作業が進み、海沿いには、たくさんの黒いフレコンバックを積んだ大型トラックがひっきりなしに行きかっていました。車を降り、鮭がかつてのぼっていた請戸川を見て、その川岸に堤防のように積み上がっているフレコンバックを呆然(ぼうぜん)と見ていました。ところどころに破れたフレコンバックからは、雑草が生えてきていました。

 もうすぐしたら、国は私たちに対し、復興のために避難をやめてそんな場所へ帰れ、と言うのでしょうか。
 福島県民から見たらほんの数パーセントである避難者が、国のいう「復興」のさまたげになっていると議員に罵倒された避難者を知っています。私もそう言われたことがあります。だから「福島県に戻ってきて一緒に頑張ろう」と。こうして、福島県民は、頑張れ頑張れ、頑張れ頑張れと言われ、原発事故のこと、放射能のことなど口にすることがはばかられ、避難者は存在すら消されつつあります。福島県近隣都県ならなおさらでしょう。

 私たちは、反対尋問のとき、今の線量で福島に戻っていいという気持ちにならないのかと繰り返し聞かれました。そう聞いてくる人たちが、今の福島より、ずっと線量の低い場所に住んでおられるのだろうと思うと不条理を覚えます。
 私たちは、ただ、公衆被ばくの線量限度といわれる年1ミリシーベルトを超える被ばくを避けたい、その一心で避難しているだけなのです。
 原告の多くが述べたとおり事故は収束しておらず、事故前の値に戻るまで不安を払しょくすることはできないし、避難を継続しているのです。
 私の大きな不安はそれだけではありません。この放射性物質の汚染がいずれ私たちの想像を超える長い年月が経過し、軽減していったとしても、福島第一原子力発電所の原子炉の損壊から飛び出た様々な物質が世界を脅かす深刻な重金属汚染として残っていくからです。福島県を中心に、一刻も早く取り掛かり対応を考えていかなければならない事案はあまりにも多すぎます。
 国民の知る権利をも統制し、目に見えるものはなるべく「見えないように」仕向けていく。目に見えないものは、「見えないのだからなかったものであるように」仕向けていく。
 国と東電は、この腐食したループを断ち、責任を認め、事故原因を究明し、賠償をし、前向きに施策を転換していくことを強く望みます。
 ここに座る被告側お一人お一人も、そしてご家族も、被ばくしてはならない権利を持っています。私たち原告は、この権利を日本内外で訴え続けてまいりました。国連でも原告の一人が、多くの外国へ向けそして、日本国に対して私たち「命」の問題として訴えます。

 裁判官は、どうか勇気をもって後世に明るい展望を持てる判断を下していただきたいと思います。

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