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★ 原告意見陳述 
 
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● 川崎 安弥子さん

 茨城県北茨城市より避難しております。

 この1月で10年となりました。
 避難当初は子ども3人と暮らしておりましたが、長男は地元でなければ暮らせないと心の葛藤の末、体調を崩し、避難して1年9ヶ月後に帰郷してしまいました。
 それからは、茨城には夫と長男が暮らし、こちらでは私と次男長女が暮らすという二重生活が続いております。私は長男の成長を、夫は、次男と長女の成長をそばで見守ることができず、3人兄弟ならではの時間、家族団らんの時間が奪われた10年でした。

 避難したから大丈夫これで安心、ではなく、「このまま避難生活を続けるべきか、限りある人生であるならば、放射能汚染があれども家族一緒に暮らすべきか」という葛藤は続いています。そうしているうちに、10年がたち、長男にとっての故郷は茨城、小学校入学からこちらで暮らす長女にとっては、コミュニティーはこちらにしかないという、家族一緒に暮らすことができたとしても、どちらかがコミュニティーの中で孤立してしまうであろうという新たな苦悩も生じています。

1. 放射能汚染について
 そのような日常を営む中、昨年1月の期日、東京電力の弁論を、怒りの声を押し殺しながら原告席で聞いておりました。
 私が暮らしていた茨城県北茨城市の北隣、いわき市には、まるで放射性物質は降下さえいないような弁論でした。
                                  
 そして、その証拠として出されたものが、いわき市の広報紙でした。隣接するいわき市に対しての弁論でしたが、私に向って言われているかのように感じました。その後、私自身にも同じ内容の反論が提出されました。
                                       
 そこには、広報紙に掲載されている夏祭りなどの写真が取り上げられていました。例年通り夏祭りは開催され、市民は放射性物質のことなど心配せずに普通に暮らしていた、というような内容でした。
 事故から数か月後の夏祭りの写真。
 当時は、まだ余震も絶えることなく、地震や津波の痕跡もあらわな状態であり、また、放射能汚染による農作物や水産物の出荷停止が続き、誰しも希望ある未来を思い描くことが困難な状況でした。
                                     
 だからこそ、復興支援の名のもと、平常時には来ないような芸能人が夏祭りでコンサートをするなど、自治体が市民を元気づけようという目的から開催された夏祭りであったのだと思います。また、広報紙では、学校や公園などの放射性物質の線量を測り掲載するなど、平常時にはありえない広報紙へと変わってしまっていたのです。ですから、放射能汚染の心配もなく開催されたわけでもなければ、例年通りの祭りなどではなく、市民に希望と勇気を与えるためのものであったと思っています。

 カラ元気であっても、元気の出る写真を掲載し、「ともに頑張ろう」とアピールするのが人間ではないでしょうか。

 津波対策を怠ったために事故を起こした加害側が、事故でばらまかれた放射性物質を無主物だと言い放ち、「そもそもあなたの暮らしていた街には汚染などない、ほら、事故直後に例年通り夏祭りをしてたでしょ。」と、まるでそれまでと変わらぬ日々を人々が過ごしていたかのように都合のいいように切り取った広報紙を利用する姿に、恐怖すら覚えました。

 東京電力の弁論では、広報紙の写真を証拠とし、北茨城市は、放射性物質が降下さえしていなかったものとされましたが、ここで確かに放射性物質が降下したという数値的な証拠を数ある中から3点だけに絞って述べさせていただきます。私が避難を決意し今なお避難を継続している理由はここにあります。

① 北茨城市の事故後放射線量の最大値は2011年3月16日午前11時40分、毎時15・8マイクロシーベルトでした。市庁舎前モニタリングの観測値です。これは、「年換算で138ミリシーベルトにも達する値」であり、また、「法律で定められた公衆被曝線量限度年間1ミリシーベルト」をはるかに超えていました。同年12月には、環境省により汚染状況重点調査地域に指定されています。

② アメリカ国家核安全保障局による大気中のダスト分析データには、茨城県北茨城市の高速道路のサービスエリアで、2011年3月23日午前2時43分、ヨウ素131は、160・04ベクレル/立方メートル及び126・43ベクレル/立方メートル、アルファ線総計1・45ベクレル/立方メートル、ベータ線総計1520・99ベクレル/立方メートルとありました。ここには、プルトニウムやストロンチウムなど、当時原発敷地外には飛散していないと繰り返し報道されていた核種が掲載されていました。それらが、人々の暮らす空間に存在するのだと衝撃を受けました。

③ 避難元である北茨城市は、2015年8月25日、平成26年度の甲状腺超音波検査事業の結果を公表しました。その内容は、東日本大震災時、福島第一原発事故発災時に北茨城市に居住していた18歳以下を検査対象者6,151名とし、そのうち3,593名が超音波検査を受け、3名が甲状腺癌と診断されたというものでした。原発事故以前には、100万人に1人といわれていたものです。

2. 住宅支援について
 この避難を実現できたのは、住宅支援があったからです。
 普通の引越しであれば、家族力を合わせて場所を決めたり、手続きをしたり、買い物をして準備ができます。
 しかし、周りの反対を押し切っての避難というものは、家族や友人の一人ひとりに苦しみ悲しみをもたらすものでもあり、子どもたちの被曝に細心の注意を払う生活の中、口にしにくい放射能のことを説明して回り、家では、ひとり荷造りをする日々が続き、そしてようやく避難当日を迎えるのです。
 心理的にも経済的にも切羽詰まった状況の中で、まだ仕事のない新しい土地に家族の反対を押し切って住宅を得るということは、支援がなければ、普通のサラリーマン家庭では非常に困難なことなのです。
 誰ひとり知り合いのいないところに避難し、ようやく親子共々居場所ができ、地域の一員として前向きに生活することができるようになったとき、住宅支援が打ち切られました。

 2012年6月21日に衆議院本会議で全会一致で可決した「原発事故子ども・被災者支援法」は、国が、被曝した被災者に責任を持つと表明したものなのであり、そこには、「被災者一人一人が、居住・移動・帰還の選択を自らの意思でできるよう国が適切な支援を行う」ことが理念とされてるにもかかわらず打ち切られたのです。

 国際社会からは、国連理事会から2013年グローバー勧告が出され、「子ども被災者支援法の基本方針を事故の影響を受けた住民や自治体とともに策定すること」や「汚染レベルを年間1ミリシーベルト未満に下げるために期間がきちんと明記された計画を早急に策定するよう」求められ、また、2017年には「国内避難に関する指導原則を適応すること」というポルトガルからの勧告を正式に認めていたのに、打ち切られた、ということです。

 このように、国は国際社会に対しては、勧告を正式に認めながら、被災者には人権を無視した施策を続けているのです。

3. 裁判への思い
 今、世界では、世界第3位の出力を持つ原発が砲撃されたのでは、とロシア・ウクライナの情勢をかたずをのんで見守っています。
 では、世界一の出力を持つ原発は、どこの国にあるのでしょうか。

 それは日本の東京電力の柏崎刈羽原発なのです。
 この原発の事故の後処理に予算がかさみ、福島第一原発の津波対策を怠ったという、福島第一原発事故の原因となった原発です。

 また、昨年は、社員が自分のIDカードを失くし、同僚のIDカードを無断で持ち出して、原発の心臓部である中央制御室に不正に入室した問題が起きた核セキュリティの脆弱な原発です。
 福島第一原子力発電所の事故の責任をきっちりとっていただかなくては、必ずや同じ過ちを繰り返すのではという不安をもっているのは私だけではないはずです。

 他国による砲撃を受けずとも、自然災害により制御不能な大惨事を起こした福島第一原子力発電所、その事故によってばらまかれた放射性物質は無主物であり、近隣に暮らしていた人々は事故から数か月後の夏祭りでは例年通りに何の心配もすることなく参加していたかのように見せかける企業。その企業に有利なように規制を緩め続け、国連からの勧告をも無視し続ける国。

 放射能汚染がなかったものとし、事故の責任の所在を曖昧にすることは、今ある命、未来の命を脅かすものです。

 被災者の人権と命を守る判決を心よりお願い申し上げます。

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