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★ 第9回控訴審(大阪高裁)期日 原告意見陳述 

 ●弁護団からのコメント

 前回期日で、東電は、「自主的避難等対象区域」には、侵害される法的利益はほとんどなかったと主張しました。
 そして、東電が、「自主的避難等対象区域」の住民にお金を支払ったのは、本当に被害を受けたわずかな人に迅速に賠償をするためだったと説明をしたのです。

 そのため、弁護団は、萩原さんにお願いして,あえて福島における被害の実情に焦点をあてて,意見陳述してもらいました。
 意見陳述は福島にだけ焦点をあてているように感じられるかもしれませんが、背景事情を皆さまにご理解頂きたいと存じます。
 
 県内、県外を問わず、原発事故によるすべての被害者が救済されるよう、弁護団は、今後も尽力する所存です。
  
                              弁護団 事務局長 田辺保雄


 ●第9回控訴審期日意見陳述書 萩原 ゆきみ
 ・ pdfで読む

  

 私は事故が起こったとき,郡山市にいて,夫と幼い娘二人と生活していました。私は原発については何も知らない,普通の主婦でしたから,原発事故が起こっても,その重大性はほとんど分かりませんでした。しかし大阪に住む妹夫婦が原発が危ないことを知らせてくれました。私は,夫にもそのことを伝えたのですが,当初,夫は「おおげさだよ」と言っていました。

 12日には原発の最初の爆発がありましたが,私には,何が起きているのか理解できず,言い知れぬ大きな不安だけがありました。
 14日のことですが,私は食料の買い出しの行列に外で3時間以上並びましたが,何も買えませんでした。
 そうやって,買い出しの列に並んでいるときに,1週間以内に本震と同じくらいの大きさの余震がかなり高い確率で来るという話しを,同じ行列に並んでいる人から聞きました。

 郡山市は中通りですから,津波被害はないのですが,原発がこれ以上何か被害を受ければ,私たちにも命の危険がせまると思いました。
 私は,とても恐怖を感じ,そのことを夫に言うと,夫が母子で「避難する?」と言ってくれたのです。
 私は,夫に大変申し訳ない気持ちでしたが,原発事故が怖かったので,その日のうちに夫に福島空港まで送ってもらいました。

 しかし,チケットがとれなかったので,私と娘二人は,その晩を福島空港で過ごすことになりました。
 夫とは,これが今生の別れになるかもしれないと本気で思いましたし、その不安な気持ちは、夫が2年後に京都に避難してきてくれるまでずっと続いていました。

 福島空港に行って,初めて,私はマスクをしないと放射性物質を吸って危ないのだということを周りの人たちから教えてもらいました。
 子どもにすぐ着けさせましたが,二人ともまだ年も幼く,注意してもすぐにマスクをとってしまいます。
 私は,子どもがマスクを外す度に,二人の命がどうなるのかと怯えていました。

 翌15日,ようやく飛行機に乗り,大阪空港に降り立った時は,命が助かったのだと心底思うと同時に、これから先いつまで避難生活を続けなくてはならないのか、夫と再び一緒に暮らせる日が来るのだろうかと、安心と不安が入り混じった複雑な気持ちでいっぱいでした。
 私は,今でこそ被ばくの恐ろしさを多くの人から学んだり,自分で調べたりしてよく理解しているつもりですが,平成23年当時は,まったく普通の人と同じ程度だったと思います。つまり,被ばくの恐ろしさは,ほとんど知りませんでした。
 ですから,私が,当時感じた恐怖や絶望感は,みな同じだったと思います。

 ところが,前回の期日では,東電の代理人が郡山市のようなところの滞在者や避難者には,ほとんど損害はないのだと主張しているのを目の前で見て,耳を疑いました。
 人の命をなんだと思っているのですか。どうか陳述書を読み返してみてください。血の通った人間なら,そんなことが言えるはずもありません。

 先日、笑顔もあり一見お元気そうな、ある避難者さんにこんな質問をしてみました。「つぎの裁判で発言する内容を考えているのだけど、あなたにとってこの10年どんな10年だった?」
 その方は,「一言では語れないけど・・・本当に頑張った・・」とたった一言もらして、肩を震わせて泣いておられました。私には痛い程にその気持が伝わってきました。

 あの東京電力の弁護士さんは,ご自分と幼い家族が福島にいたとしたら,それでも本当に損害が無いと思うのでしょうか。
 私たち原告の陳述書を読めば,当時,福島から避難せざるを得なかった人たち,家族だけを避難させた人たちの気持ちは,一目瞭然です。

 そして,これは裁判をしている人だけが、特別に思っていることでも、経験したことでもありません。あの時,福島にいた人は,たとえ避難指示が出ていなくても,同じように苦しい時間を強いられたのです!
 だから、私たちは訴え続けなくてはならないのです。
 裁判官には,このことをよく分かって頂きたいです。

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 ●第9回 控訴審 意見陳述書 福島敦子
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 国と東電は、福島第1原子力発電所の放射性物質流出事故発災から10年経っても謝罪せず、責任を取ることも正しい情報を国民へ開示することもありません。
 水は清き故郷が放射性物質に汚染されたままならば、私は死ぬまで避難者であり続け、福島県と近隣都県に住まう人々の人権の蹂躙は続いていく、ということを陳述します。

 2011年4月2日早朝、会津から京都府のシャトルバスに乗せてもらい府庁へ着いた時はもうすっかり夜になっていました。まだ大きく見えるランドセルを背負ってバスから降りる娘2人と、衣類を詰めたゴミ袋を両手に提げ長靴を履いていた私、福島市から来たという単身の女性と浪江町から避難してきた男性の5名はカメラのフラッシュの中庁舎内へと入っていきました。私と娘にとっての京都は、3つ目の避難先でした。庁舎内ではすぐに、「スクリーニング済証」を係の人へ提示し、外部被ばくがない事を証明しなければなりませんでした。

 翌日私たち親子が宿泊したのは、京都府が掛け合い好意で泊めさせていただいた三条河原町にある旅館でした。府庁からタクシーで旅館へ向かう間に私の目に飛び込んできたのは、被災地で目の当たりにしてきた灰色に染まったような街の風景とは違い、春の風を感じて軽やかに行き交うパステルカラーの洋服に身を包む人々の姿でした。旅館に着いてからも特に外に出ることもなく、窓から震災があったことなどみじんも感じさせない街を見下ろし、長時間取り残されたように感じていました。寂しく、悲しくもあり、もどかしい感情が沸き上がりました。その時、にぎやかしい音が聞こえてきました。「原発を止めろ」と叫ぶ短いながらも活気に満ちたデモ隊でした。ベビーカーを牽く女性の姿もありました。私は励まされているような気がして涙が止まりませんでした。

 国は、放射性物質の流出事故発災からすぐに住民を放射円状に区域分けして「避難」させました。これにより、道路を挟んで補償金がもらえるかもらえないかと住民が「分断」されていきました。この「分断」は、区域内にとどまらず、後に自主的避難者とよばれる区域外避難者、区域外避難者でも中間指針で認められるエリアの避難者とそれ以外の避難者、福島県内の避難者と県外の避難者、避難者と在住者と複雑に絡み合っていきました。家族の中においてでさえ、避難するかしないかのいさかいの後に離婚するほど深刻になりました。家庭内での被ばくに対する認識の違いにより、理解ある大人が身近にいない子どもたちの発言権は当然のように奪われ福島県内の子どもたちは県外への保養すらままならない状況になりました。自主的避難者の中には、「ただ不安で逃げた」と被告国と東電、親せきや近所の方などから言われ傷ついた人がたくさんいます。自主的避難者が後ろ髪惹かれながら後にした町のほとんどは放射性物質が降った以外何も変わっていません。そこから避難し、生活の困難さも加わり「本当に避難してよかったのか」と自責の念に駆られ続けました。2015年を境に避難者へ無償提供されていた住宅は段階的な打ち切りになり、打ち解けることができた避難者たちがまたばらばらに引っ越していきました。そして自ら原発事故で被災した話をしなくなっていきました。

 去年、福島県大熊町では、税金20億円をかけて「いちごの栽培施設」がオープンしました。町に戻った人は2020年時点でたったの100人程度。国と福島県は、帰還するかわからない不確定の人のための手厚い公共事業を行いました。いまだに放射線量の高い地域で、被ばく防護の保証もされない住民が栽培したいちごは売れているでしょうか。「復興」のために一生懸命にいちごを栽培する農家さんがいて、万が一、この事業が軌道に乗らなかった場合、国はこう言うでしょう。「風評被害だ」と。

 こうして国と東電は、一部の住民に「金」をばらまき、分断させて、だまらせようとしました。自主的避難者に、「国益を害する存在だ」として、非国民のように糾弾し、だまらせようとしました。帰還した人々や在住者に対し、がんばれがんばれと「復興」という苦役を強いて責任を転嫁させ気力、体力を奪いだまらせようとしました。そして先の期日で東電は、原告番号18番に対し、「賠償金を払いすぎた」と言って、賠償金をまだ受け取れていない原告と18番の間に溝を作るべく恣意的なプレゼンを行いました。
 これまでの公害訴訟でも何度となく繰り返された「分断と被害者解体工作」を今回まんまと裁判長の前で披露され、私の心身は大きく震えました。

 私たち原告団の半数超がPTSD傾向にあるということは、裁判長はご存じでしょう。
 特に子どもたちの心身は長期的なケアが必要です。この原告団共同代表である私でさえ、心療内科へ行くほどの先の見えない10年を過ごしてきました。

 被告である国と東電に一日も早く責任を認めさせ、原発事故収束へ向けた具体的施策の転換を求めてください。何人も被ばくしない権利を守ってください。日本のみならず世界の住民がこの原発事故の被害から救済されるよう、安心して生活できるように判断下さいますように心よりお願い申し上げます。

 最後に、裁判長。裁判長の命と私たち原告一人一人の命と向き合い、被告である国と東電を断罪してくださるよう切にお願い申し上げ、私の意見陳述を終わります。

                                       以上
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