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 ◆ やましろ歴史散歩

◇「武埴安彦(たけはにやすひこ)の乱」と祝園(ほうその)

 古代、京都府一帯はやましろ(山背、山代)の国と呼ばれていました。今の宇治川から南は巨椋湖という大きな湖があり、木津川もその巨椋湖に流れ込んでいました。

 のちに第10代崇神天皇と呼ばれたミマキイリ彦大王の時代に、巨椋湖より南の地域(南山背)を舞台に、「武埴安彦(たけはにやすひこ)の乱」と呼ばれる大きな戦いがありました。武埴安彦はミマキイリ彦大王の父・オオヒビ王(第9代開花天皇)の異母兄弟とされる人で、もともと南山背を基盤としていた豪族です。

 その武埴安彦(たけはにやすひこ)が謀反を企んでいるということで、ミマキイリ彦王は大彦と彦国葺(ひこくにぷく)を鎮圧に派遣します。木津川を挟んで戦いになり、武埴安彦軍が敗北します。大勢兵士が殺された場所を「屠る(はふる、ほふる)」(切り殺すの意)から転じて「羽振苑(はふりその)」と呼ぶようになり、現在は縁起のいい漢字に変えられて「祝園(ほうその)」という地名になっています。

 近鉄の新祝園駅の北東、木津川に近い場所に祝園神社があります。そして、祝園神社の参道近くに「崇神帝10年役 武埴安彦破斬旧跡」という石碑が立っています。考古学者の森浩一さんは、祝園神社はもともと武埴安彦の霊を鎮めるために建てられたのではないかと推理しています。


◇かぐや姫伝説のふるさとは京田辺

 子どもの絵本になっている「かぐや姫」の原作は、『竹取物語』という物語です。『竹取物語』は日本最古の物語といわれ、作者は不詳ですが、実は現在の京田辺市が舞台となっています。かぐや姫に求婚にやってくる5人の貴公子は、平安時代の政権の中心にいた貴族がモデルになっています。「石作皇子」が右大臣丹比真人、「車持皇子」が藤原朝臣不比等、「右大臣阿部御主人」が大納言阿部朝臣御主人、「大納言大伴御幸」が大伴宿祢御幸、「中納言石上麻呂足」が石上朝臣麻呂をそれぞれモデルとし、揶揄(やゆ)しているのです。

 そして、時代は違いますが、実際に「かぐや姫」という名の姫様もいました。イクメイリ彦大王(第11代垂仁天皇)の妃の一人に、大筒木垂根王の娘「迦具夜比売(かぐやひめ)」という方がいます。山背国は竹の産地で、木津川左岸にはのちに綴喜郡綴喜郷となる筒木地域がありました。「大筒木垂根王」は、筒木地域の竹の根が張った屋敷に住む豪族だったのでしょう。

 『竹取物語』に出てくる翁(おきな)の家は「山もと」の近くにあるとされています。奈良時代に駅制ができました。道路沿いに一定間隔で駅を設け、宿舎や駅馬をつなぐ厩舎・水飲み場・倉庫などが備えられましたが、平城京から北に向かう最初の駅が「山本駅」でした。現在の三山木駅の近辺にあったと言われています。

 京田辺市郷土史会の中に「かぐや姫の里を考える会」ができ、その後「国際かぐや姫学会」と改名されて活躍されています。


◇南九州の隼人が住んだ大住郷

 5世紀ごろ、南九州の大隅半島に居住していた隼人(はやと)が、大和政権によって綴喜郷の北方に連れてこられました。その地域はのちに大住郷と呼ばれるようになりました。隼人たちは朝廷警護をしたり、元旦や即位式、外国からの客を迎える儀式にあたり、楽器を演奏し歌舞を奏したとされます。現在、JR学研都市線の大住駅の北に月神を祭る月読神社があり、1970年に隼人舞が復活され、毎年10月14日の夜に隼人舞が行われています。


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