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★ 「原告と共に」No31 2020年4月発行 

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全6ページ 原告と共に No.31
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第6回期日は抽選に至らず… 札幌地裁が国の責任認める判決!

 新型コロナウィルスの広がりで、3月中に予定されていた集会や催しがほとんど中止になりましたが、みなさまはいかがお過ごしでしょうか。

 2月26日に行なわれた京都訴訟の控訴審第6回期日は、新型コロナの影響もあって抽選には至らず、傍聴席も少し空席が出ました。

 3月には、①北海道訴訟判決(札幌地裁)、②浜通り避難者訴訟控訴審判決(仙台高裁)、③小高に生きる訴訟判決(東京地裁)という3つの判決が出ました。

 ②と③は東電だけを対象にした訴訟なので、ここでは①の北海道訴訟判決に触れたいと思います。
この間、愛知・岐阜訴訟(名古屋地裁)、山形訴訟(山形地裁)と、国の責任を認めない判決が続いた中で注目されていた札幌地裁判決ですが、長期評価の信頼性も津波の予見可能性も結果回避可能性も、すべて原告側の主張を認めました。

 そして、国が電気事業法条に基づく技術基準適合命令を発して必要な措置をとるよう命じなかったことは、「許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠く」として、国は国家賠償法1条1項により、「原告らに生じた損害を賠償する責任を負う」としました。

 避難継続については国の言い分どおり

 一方で、認定された賠償額は極めて低額でした。そして金額以上に問題なのは、「自主的避難等対象区域」からの避難者について、「避難継続の相当性が認められるのは2011年月日まで」としたことです。

 これは、昨年9月日の群馬訴訟の控訴審で国が行なった主張に沿った判断です。国の言い分は、「避難指示区域外からの避難者について2012年1月以降も避難継続の相当性と損害の発生を認めることは、自主的避難等対象区域での居住を継続した大多数の住民の存在という事実に照らして不当である上に、その地域が居住に適さない危険な区域であるというに等しく、そこに居住する住民の心情を害し、ひいては我が国の国土に対する不当な評価となるものであって、容認できない。」というものでした。

 これは、裁判所に対して「2012年1月以降の避難継続を認めるなよ」という脅しとも取れるものでした。札幌地裁はまさにこうした国の脅しに屈したと言えるもので、到底認めることはできません。

 ともあれ、今回の札幌地裁判決で、国の責任が争われた裁判での件の判決のうち、国の責任を認めたものが7件となり、一歩押し返しました。今年は結審や判決が出てくるので、当該裁判を応援し、支援の輪をいっそう広げていきましょう。


●原告だより

 ◆震災から9年 4月から社会人 高木悠季さん

 地震が発生した当時、私は小学5年生、妹は4年生だった。学校が終わり、海から1キロ以内にある塾へ通っていた。午後2時分突然の激しい揺れ。何が起こっているのか私や妹、周りにいた子供たち、先生たちもパニックになり、一斉に机の下に隠れた。その中で棚が子供たちの目の前で倒れたのを覚えている。

 揺れが収まり、塾長が誰かと連絡を取っており次の瞬間、「分後に津波が来る」と口にした。それを聞いたとき私は海がここから近いことが分かっていたので今すぐに避難をしなければ死ぬかもしれないと頭をよぎった。

 その時、近くのスーパーで働いていた母が駆けつけてきた。心配で仕事を抜け出し来てくれた。母は叔母に迎えに来るよう連絡をしたらしく、その後に、車で迎えに来てくれ、すぐ帰宅した。家に帰った私が目にしたものは、地震の影響で物が散乱し、悲惨な状態になっており目を疑った。

 すぐ、荷物をまとめ私と妹、当時小学3年生の従妹、叔母と祖母の5人と近所の人と山の中学校へ歩いて避難をした。そして、父親も母親も無事に避難所で合流することができ、その日の夜は私と父、母、妹4人は家に帰り、叔母と従妹、祖母は避難所で一晩過ごすことになった。

 私が避難した後、塾は浸水した。自宅も無事だったが近くまで津波が来ていた跡が道路に残っていた。今思うと、家族が全員無事だったことがなによりの幸いだった。放射能により私の家族は外出時、マスクをつけたり、水道水は飲まなかったり、スーパーマーケットの買い物ではなるべく九州地方方面の食べ物を食べており、放射能からなるべく避けるため福島県産は食べなかった。洗濯物は外に干さず屋内で干し、学校給食は食べずお弁当を持参していた。雨が降ったとき学校の登下校は母の車の送迎だった。

 東日本大震災以降、放射能を避けるため外出が減りあまり外で遊べなくなり土を触ることができなくなった。

 そして東日本大震災から3か月後の6月に、放射能から逃げるため父と母と離れ、一つ下の妹と親戚と母の実家秋田県へ約半年間避難生活をした。私たち家族が京都に避難して最初に印象的だったのが関西弁だった。新鮮な環境に感動したのを覚えている。いつもテレビのお笑い番組でみている光景を目の当たりにして驚いた。

 そして京都に避難してきて嬉しかった事は、洗濯物を外に干せたことである。それまでは、放射能の影響で外に干さず中に干して生活していた。他にも水道水が飲めたり、外出はマスクを外せたりと、当たり前の生活がこんなにも幸せだった事を強く実感した。支援者の佐藤さんに、友達になった兄弟二人と私の妹とユニバに連れて行ってもらい、とても楽しかったことを覚えている。

 あれから9年経ち、私は今年の4月から就職が決まり幼稚園の先生として働く。

 東日本大震災からの避難者の交流会で、小さな子どもと触れ合う機会があり、徐々に保育者の道に進みたいという気持ちになった。そして高校、大学も幼児保育学科を専攻し学び、資格を取ることが出来た。2年間の勉強を本当によく頑張ったと思う。

 京都での生活も馴染め、たくさんの周りの人達に今まで支えてもらった。私の命と健康を被ばくから守るために京都まで避難を決断した母に恩返しができるように、新社会人としてこれから頑張っていきたい。

 新型コロナウイルスの感染が広がるなか卒業式も中止となった。忘れられない思い出となった。

 原発事故の放射能は、大人より子どもが影響を受けやすく、甲状腺がん、遺伝子に影響し、将来の胎児にも及ぼす可能性もある。つまり子どもだけでなく、妊娠している女性、赤ちゃんまで危険にさらされる可能性も否定できない。

 保育者は子どもの命を守る立場としてこの問題をどのように捉えるのか重要になると思う。そして今まで母に守られてきた立場だったが、今度は私が未来を背負う子ども達の健康を守る立場になる。未熟者ではあるが責任を感じる。

 最後に我がふるさとに思う。

 いつの日か科学が発達し、福島が美しいふるさとに戻ってくれる事を私は信じてやまない。


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