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 ◆ 3・11 あの日を境に ― それぞれの10年を語る集い(オンライン)


 いま振り返り思うこと

                                    堀江 みゆき

 みなさん、おはようございます。私は原発事故の前は福島県福島市に住んでいましたが、2011年8月に京都の方に避難してきました。最初は右京区太秦の普通の民間の借上げ住宅に住んでいましたが、そこは半年ほどでその後に西京の洛西の方に移り、去年の秋までそこにいました。去年の秋から大阪の茨木市の方に移っています。

 この10年を振り返ってということについて、とりとめもなく話をするのが嫌なので、最初にきちんと考えてやってみようと思ったのですが、すいません、まったくできませんでした。

 簡単に言いますと、振り返ることもなくきてしまった10年だったように思います。それはなぜかなって思って考えた時に、私は皆さんよりも子どもは大きかったけれども、その子どもたちをいかに一人前にするかというか、高校、大学と卒業させて自立させるということに必死、自分自身も働く事に必死だった、そんな10年でした。お陰様で子どもたちは皆働くようになり、結婚して独立した子もいます。目標ではないんですけれども、私の親としての役目は達成できたかなと思っています。

 この原発事故ということに関しては、もちろん忘れることはないし、常に放射能の影響というものを気にしてきたので、ずっと頭の中にはあるんですけれども、それと同時に、いかに普通に暮らしていくか、そんなこともずっと同時に抱えてきたように思います。

 いかに普通に暮らすか、本当に当たり前なんですけれども、そういう日常的な生活を取り戻すことがなかなか難しかった、簡単には手に入らないものだなというようにも感じています。昨年の秋まで住んでいた洛西が一番長いということもあって、だんだんの地域の中にも知り合いができたり、一緒にお茶を飲んだりする方もできたりした時に、本当に普通の暮らしができているなと思いました。ようやく本当に普通に暮らせると感じたのが9年目だったように思います。

 この10年で、自分の中で一番何が変わったかといったら、社会の問題に目が向くようになったことです。あの原発事故があったからこそ気づくことができました。それまでは原発に関しては、福島市は原発がそんなに近いわけではないですし、危険かどうかなど特に考えたことがありませんでした。子どもの頃から、海水浴に行ったら原発の建物があるのは本当に当然で、事故が起きることもまったく想像したことがありませんでした。

 原発事故が起きて、避難してきて当事者となった時に、本当に身近なところにいろいろな問題があるんだなと実感しました。そういうことに関して、いかに自分が他人事だったかということも思い知らされ、原発事故に限らず、いろいろな社会問題を自分のこととして考えていかなくてはいけないと思うようになりました。これからもできることをやっていきたいと思っています。

 


 人権意識を高めたい
 
                                    川崎

 茨城県北部から、子どもと避難しております川崎と申します。
 
 原発事故から丸10年の節目の今、人権に対する意識を高めることの必要性を痛感しています。

 福島県など避難元に戻られた方のお話を聴いたり、私自身が体験したことや見聞きしたことから、被災者が「自分の選択したことに罪悪感を抱いてしまったり価値観の相違から分断してしまう原因」のひとつには、人権意識が薄いことがあるのではないかと思うようになりました。

私自身が、「人権」について強く意識するようになったのは、京都に避難してからです。人権に対する意識は、東日本は京都に比べて、薄いような気がしています。京都は、学校教育の中で、人権教育に力を入れていたり、市民運動も盛んなので人権意識が特別高いのかもしれない、とも感じています。

 もっとも、これは、たまたま私の勤務先が、人権啓発をしようと活動する方々との関りが強いから、そう思うようになったのかもしれません。原発立地地域とその周辺は、我慢は美徳という文化のところが多いような気がしていて、
本来あるべき人権が国によってないがしろにされていることに対して抗う意識がそもそも欠けているのではないか、人権というものがあるんだよっていうことをしっかりと認識できるような教育をされて来なかったのではないか、と思うようになりました。

放射能汚染に関する活動をする中でも、避難を選択する時でも、人権やジェンダーという問題が根深く関わっていると感じてきました。私は、避難するまで結構時間がかかり、避難したのは2012年の1月なんです。時間がかかったからこそ、避難するまでにはいろんな声を聞きました。いわき市に住んでいる知り合いからは、「茨城の人が避難するなんて、東北の人はどうすればいいの」と言われたり、避難したいと思っていた友人は、旦那さんから、俺や俺の家族の面倒は誰が見るのかと言われたり、なにかこう、人権とかジェンダーとか、そういう問題がすごく関わっていると感じてきました。

 それこそ避難する権利があるのに、被告国や東電にではなく、同じしんどさの中にいる家族や知人から避難することを否定されてしまい、まず、そこに抗わなければならないということがありました。

 また、自主避難者は、他の避難者から「差別されるから黙れ、街頭でしゃべるな」と言われたり、避難を選択しない人からは、「気にしすぎ」など権利を主張すると足を引っ張られるということもありました。「足を引っ張る」ということは、相手の人権を尊重していないのはもちろん、その裏には「自分は我慢しているのに、我慢しろ」という自己に対する人権意識も大切にしていないのだと思っています。

 そのようなことから、災害時ではなく、普段から、人権意識を根付かせていくことの必要性を強く感じています。批判されたときに、きちんと自身の言葉で人権を主張できることが大切なのだと思います。大切なことを誰かに任せてしまうのもまた人権意識の欠如だと思います。

人権に対する共通認識を持つことは、帰還しても、避難を続けていくにも、自らが生きやすくするためには、とても大切なことだと思います。

 原告有志で、国際人権法と国連勧告に関する本を4月に出版するのですが、この本はとても大切なものになるだろうと思っています。次回裁判期日で東電が国際人権法について反論するとのことでしたので、その時、東電に対して正当な反論ができるように私自身もしっかり学び、この本を広めたいと思っています。

 この節目は、「人権」意識というものが私の中のキーワードになっています。
                                  


 日本全国八墓村―人権・ジェンダーの視点から

                                    小林 雅子

 皆さん、おはようございます。原告の小林です。

 福島県福島市から2011年の8月に京都市の桃山東合同宿舎に避難して、今は宇治市に住んでいます。

 今日は何を話していいかちょっと分からなかったんですけれども、皆さん素晴らしいお話をされていたので。川崎さんがさっき話したように、やっぱり原発事故の問題と人権ってすごく繋がっているなって、人権とかジェンダーとか。最近ジェンダーの件について、とても考えることが多くなったんですね。

 3月9日の毎日新聞に宇都宮大学の清水加奈子准教授の記事があって、見出しが「女性苦しめる健康な嫁」という記事で、『女性差別と避難するかしないか』そういうのは、とても繋がっているんだと、その記事には書いてあるんですね。それと『価値観連鎖の懸念』というのがあって、記事には、「さらにその価値観を女性自身が内面化し、連鎖していく実態もある。ある母親は、娘が将来差別を受けることを心配する一方で、自分に息子がいて福島の女性と結婚すると言ったら大丈夫だろうかと思ってしまう」と打ち明けた。この差別に関わる問題を複雑にしているのが、原発事故の健康影響を語ることがタブー視されていることだ。清水さんによると、健康影響を調べたり、議論すること自体が差別を招くと非難されることがあると。」私ここに赤線引いたんですけど、本当にそれにつきるなって私は思っているんです。

 避難したくても、『俺の面倒とか親の面倒誰が見るんだ』とか、なんか、女性の立場は未だに弱くって、今21世紀なのに、まだそういう考え方をしている。嫁とか家とかなんかそういうものにすごく縛られて、何か大切なこと、本来だったら家のことを考えるのなら、自分の子孫や子どもってめちゃ大事なのに、家が大事なら子どもの命と健康は大事だと思うんですけれど、なんかそういう考えじゃなくて、『面倒を誰が見るのか』とか、なんというのかな日本全国八ツ墓村みたいなね、そういうことを変えていかないとこの問題ってなかなか難しいのかなって思います。
 それで、日本全国八つ墓村的な封建主義と女性差別が、避難したことに対して罪悪感を持ったりしちゃう原因なんじゃないかなと思うんですよ。

 あと、東電が国際人権法についていろいろ反論するらしいですけど、この間、金曜日だったかな、東電社長の記者会見があったんです。柏崎刈羽原発の不祥事について会見していたんですが、『事故の反省と教訓に基づいて云々』とか殊勝なこと言っていたんですけど、事故の反省と教訓に基づいていたら、私たちのことを控訴したり、国際人権法について反論なんてしないよなって思いました。

 まとまりがないですが、時間もないので以上です。
                                  


 2011//11/からのわたしの十年と、次の十年のために

                                とある避難者A

 「2011年3月11日」から10年が経過しました。2021年3月21日に「それぞれの10年を語る集い」をオンラインにて開催していただき、ありがとうございました。当日わたしは、顔は映さず、音声のみでお話させていただきました。画面には赤色と黄色のお花のプランター二つが映っていたかと思います。あのお花たちは、福島第一原子力発電所による放射能災害で避難指示が出された富岡町から、いわき市のわたしの実家のまさに隣の土地に住まいを移されたご家族から戴いたものです。

  2021年3月21日現在、わたしは福島県いわき市の実家にて過ごしています。オンラインにて皆さんと繋がれていることが大きな心の支えです。

「集い」の前日の夜、東北地方にて大きな地震がありました。13日にも大きな地震がありました。どちらも本当に大きな地震で、10年前の東日本大震災を思い出さずにはいれませんでした。この10年間、東日本大震災の余震も含めて沢山の地震が発生し、その度に「震源地近くの原発は大丈夫だろうか」と思わず考えてしまうことが常となってしまいましたが、今回の地震の後には、事故を起こした福島第一原発建屋の中で気体が出ているとか、水位が下がっているとか、そのようなニュースが入ってきました。10年が経過しようとも原発事故は収束しておらず、本当に放射能がおそろしいです。家族の事情のため今はいわき市の実家にいる身ですが、この感染症の状況の解明も進み、また自由になれたら、すぐにでも京都に戻りたいと思っている状態です

 10年前の2011年、わたしは未成年でした。未成年から大人と呼ばれる年齢の過度期を超え、重ねてきたなかで、わたしが一番感じてきたことは、大人の責任とは一体何なのだろうということでした。両親の世代も含め、すべての大人を憎んでいた時期がありました。

 広島・長崎、スリーマイル島、チェルノブイリ、東海村と、日本はとくに放射能の負の歴史を重ねてきた中で、どうしてその反省が行われず、放射能による被害を繰り返してしまってきているのだろうというのが、腑に落ちないのです。責任は誰にあるのかと考えると、結局は「すべての大人」なのだろうと思います。

 そして福島での新たな放射能の災害も含めて、これからはその責任をわたしたちの世代が嫌でも背負っていくことになると思うと、一体誰がこの2011年当時未成年だったわたしたちの心に寄り添ってくれるのだろうと思います。

そんなわたしが京都で過ごしていた時には、大学で歴史学科に所属し、卒業論文も修士論文も原発事故に関連したことを書いてきました。やはり「放射能」である以上、広島・長崎からの日本人の背負ってきたものというのは大きいのではないかと思います。自分の人生の中でいつの日か博士号も取ることができたら良いなと、それがわたしの今の夢です。

 地元の友人などは、皆結婚して子どもを産んでという年齢にもなりましたが、わたし個人の将来設計としては、自分自身が原発事故を経験して被ばくした身であり、そのようなおそろしい原発事故が起きるような社会となってしまって、その後も今日世界中を襲っている感染症や、度重なる自然災害と、またそこから原発がどうなるか分からないというこの世界に、自分の大切な子どもを送り出すことはできないなと感じています。女性の体を持つ自分ということをわたしに乱暴に突きつけてきたのは目に見えない放射能であり、原発事故の影響というはやはり大きかったのだと思っています。

 ですので、私の生家というのは、自然豊かな福島県の土地で何代も農家を営み、子孫へと繋いできた家なのですが、その先祖からの大切な「家」はきっと私の代で終わりとなるのだろうと思うと、大切なものを護りきれず、ご先祖様たちにも申し訳ない思いです。原発事故が起きても、わたしや家族の大きなしがらみとなる位、この「家」というのは重く、大切なものでした。ですので、避難指示区域に設定されたことでそのような家と土地を奪われ、私の実家の隣で今は生活しているご家庭もあるのだと思うと、福島県民はどれだけのものを奪われてしまったのだろうと思います。

 東日本大震災以後も自然災害は毎年各地で頻発し、我が家もさらなる被災を受けましたが、ある時それをきっかけに、地元の人たちと Twitterで繋がることができました。この地元の人たちというのは、原発事故で避難を選択できなかった人たちとか、選択しなかった人たちです。しかしみんな結局は、同じ福島県を故郷に持つ仲間であり、わたしがこれまで勉強してきたことや考えていることを柔らかく少しずつ発信をしてみると、今現在未成年の子どもを福島県内にて育てているお母さんたちの世代にはやはりどこか響くものがあるのか、原発事故についてもお互いの考えを交わしあえる様になりました。自分が勉強してきたことを少しずつでも、誰かの役に立てたらいいなと思っています。

 支援してくださっている皆様には心からの感謝を申し上げます。現在は福島県内にいる身ですが、今はただ、京都の仲間の皆さんのお顔が見たいです。

 2011年3月11日から10年を、何とか迎えることができました。

 次の10年目へ向けて、そして「放射能」という果てしない問題の未来へ向けて、一歩一歩わたしも歩いていけたらよいなあと思います。



 3・11 あの日を境に ― それぞれの10年を語る集い

 原発事故10年を迎えました。「原発事故から10年」ではなく、「原発事故10年」と表現しているのは、事故は未だ収束しておらず、被害者・避難者は今なお様々な被害を受け続け、苦難の人生を生き続けているからです。

 加害者である国と東電は責任を認めようとせず、政府の賠償指針は被害実態と大きくかけ離れ、特に、区域外避難者(いわゆる自主的避難者)への賠償は雀の涙ほどです。

 「なかったことにはさせない」と声を上げ続ける被害者・避難者の声に改めて耳を傾け、「自分事」としてともに歩んでいきましょう。

 下記のとおり、「3・11 あの日を境に それぞれの10年を語る集い」をオンラインで開催いたします。
 ぜひ、ご参加ください。



 
◆日   時:2021年3月21日(日)10:00~12:00

 
◆開催方法:Zoomによるオンライン開催

  
https://us02web.zoom.us/j/88390130404?pwd=dnVLajNlUWRXdEJaM2JWZit5RnNFdz09
  ミーティングID: 883 9013 0404  パスコード: 009987

 ◆プログラム
  ・ 9:30 Zoom接続、開会準備
  ・10:00 開会あいさつ  
       ・避難者から 「原発事故10年、避難者の思い」
        ・支援者から 「京都での10年間の取り組みの紹介」
       ・ご参加の皆さんから
  ・12:00 終了(予定) 

 
◆参 加 費 :無料


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